ポピュリスト政治家の時代における自由なメディアと民主主義

クンダ・ディクシット / Kunda Dixit (ネパール)

「Nepali Times」紙 編集者・発行人 / 2006年度ALFPフェロー

今日私たちの多くは、南アジア、そして世界中で、メディアと民主主義が直面している難題に頭を痛めている。

自明の真理だと思ってきたものが問われている。新しいメディア・テクノロジーによって、新聞ジャーナリズムは周縁化されつつある。メディアのビジネスモデルは崩壊してしまった。報道の自由の侵食は民主主義を衰退させつつある。

南アジアではこの5年、オルタナ右翼が勢力を増している。表現の自由の長い伝統を持つ世界最大の民主主義国家においてさえも、監視員やならず者がうろつきまわり、脅迫や殺害によって、ジャーナリストたちを黙らせている。

フィリピンの国民は、公然と自警暗殺団を率いていた男を大統領に選んだ。トルコの新大統領は、反体制派に対し情け容赦のない弾圧を加えた。ブレグジット以降、ヨーロッパ各地でもオルタナ右翼が台頭してきている。トランプは、ツイッターで、もうこれ以上ショッキングなことは言えないだろうとわれわれが思った矢先、さらなる驚愕をわれわれに与え続けている。

西洋の民主主義にはそもそもの初めから設計ミスがあったのではないだろうか。どんなに極端な意見にも卑劣な言葉にも、無制限の表現の自由が与えられてよいものだろうか。ポピュリスト政治家は、この自由を使って、移民による犯罪やテロの恐怖を煽る。選挙時には、マスコミ操作によって大衆の投票行動がコントロールされる。

民主主義は、ポピュリスト政治家たちにつけ入る隙を与えてきた。伝統的民主主義の政治体制が混乱し、説明責任が果たされず、慢性的な経済的・行政的停滞に陥ると、そこを君主たちは巧みに利用する術を知っている。そして一度選ばれて政権の座を奪うと、彼らをそこに就かせた民主的な制度そのものを壊しにかかるのだ。

1930年代のドイツで起こったことはまさにそれであった。ドイツの新聞「ディー・ツァイト (Die Zeit)」の最近の特集記事で、ヨーヘン・ビットナー (Jochen Bittner) は、現在の世界に蔓延する反民主主義的潮流を、「強権的秩序主義」(orderism)と呼んでいる。それは無秩序と混沌に対する恐怖に発し、自由よりも安定を優先させる。ビットナーは、これを共産主義のユートピア思想になぞらえ、どちらも「専制を覆い隠すイチジクの葉」だと言う。強権的秩序主義が敵視するのはリベラル民主主義であり、その意味で、プーチン、トランプ、ドゥテルテ、エルドアンたちは、互いを称え合う同胞体のようなものを形成している。

南アジアでは、強権的な指導者の統治を待望する気持ちが伝統的に強い。エリート政治家が説明責任を免れ、制度を改変して何度でも連続して政権を掌握できるようにしてきたことに端を発している。王族政治家や無定見な統治者たちが、不安定な政治状況と腐敗した民主主義を蔓延らせてしまった。南アジアの諸国民は東アジアに見られる秩序に憧れている。

南アジアの多くの人々は、自分たちの都市の不潔さ、老朽化するインフラ、風土病ともいえる腐敗した慣行にうんざりしている。アンケート調査の上では、人々はまだ民主主義を強く信じているという結果が出てくるのだが、心の中では、マレーシアやシンガポールや中国に羨望の眼差しを向けている。これらの国々の制限ある民主主義のほうが経済発展に向いた方法だと思っているのだ。

しかし南アジアのどの国も、専制的な統治はすでに経験済みで、それはあまりいい経験ではなかった。実際、強権的な政治家たち(女性も含めて)は、選挙で選ばれた政治家たちと同じように、腐敗と専横に染まっていることが多かった。

南アジアで最も腐敗が少なく、最も説明責任が果たされたのは、政権交代期のつなぎとして登場した、選挙によらないテクノクラートからなる暫定政権の時だけであった。リー・クアンユーのような政治家を持てることは、実に幸運なことであって、彼は自分のヴィジョンを強権的に推し進めながらも、同時に、制限された民主主義の中でも説明責任をきちんと果たし得ることを実証して見せた。

アメリカや他の国々の選挙で見られた下馬評を裏切るような結果は、メディア操作、特にソーシャル・メディア操作によるものであった証拠が次々に上がりつつある。真実から目を背けてしまったジャーナリズムは、民衆のことを気にかけなくなり、ソーシャル・メディアは、ボットやフェイク・ニュース・サイトにハイジャックされてしまった。

近年、ケンブリッジ・アナリティカ社が、選挙時に特定の候補者に不利になるような個人情報をFacebookから盗んできて対立陣営に売ったということが暴かれたが、Facebookはそれ以前から、虚偽情報を垂れ流しにしているとして、厳しい批判を浴びていた。

ジャーナリズムには、対立する両者に同等のウェイトを与えて報道しなければならないという中立性の原則があるが、一方が故意に虚偽や扇動的なことを言っていることが明らかな場合にもこれを守るのは、「欺瞞的中立性」(false equivalence) と呼ばれ、疑問視する人が出てきている。「客観性」というこれまでの美辞は、その中身が問われるようになってきている。見せかけの中立性よりも、真実を伝えるのがジャーナリズムの使命ではないのか。

こうした本質的な問いが出てきた時期は、いろんなところでメディア批判が噴出していた時期であった。ジャーナリズムは、コマーシャリズムの波に呑み込まれて、社会への情報伝達という本務が疎かになっているという批判が一方にあり、また一方で、ウェブ上のソーシャル・サイトに、既存のジャーナリズムに対する悪意に満ちたコメントが続々と書き込まれ、その影響力が無視できなくなってきている。

デマゴーグ (demagogue) は、古代ギリシャ語に由来する言葉で、もともと悪い意味は全くなく、「人民の指導者」という意味だった。否定的なトーンを帯びるに至ったのは、アテネの上流階級が労働者たちを見下すようになってからのことだ。今日のデマゴーグ、すなわちポピュリスト政治家は、選挙時にメディアを操作し、熱病的な愛国主義や、他者に対する差別心を煽り立てようとする。今われわれのまわりに広がっている、ジョージ・オーウェルの『1984』と『動物農場』を合成したような不気味な状況にあっては、真の客観性を守ろうとするジャーナリストは、どこか浮いた感を与えてしまうほどだ。

裸の王様に向かって裸だと指摘する人間は、王様から嫌われることになる。権力も不都合な真実を言い立てられることを嫌い、権力の批判者を威嚇し攻撃する。選挙で選ばれた独裁者の下にある官庁も保身の要領を心得てくる。しかし気に入らないジャーナリストを投獄したりすると、国際的に望ましくない注目を集める恐れがある。そこで彼らはやり方を洗練させ、目につかないところで脅しをかけ、首尾よく黙らせてしまう。より陰険で悪質になったのである。

これに比べると、従前の検閲制度のほうがまだしもマシというものであった。少なくとも敵ははっきりしていた。われわれは、民主主義と報道の自由を守るということを自分たちの崇高な義務だと心得ていた。しかし今、報道の自由を脅かす所業が、全体主義国家ではなく選挙制度を持つ民主主義国家で起きており、議会も司法も、権力に歩み寄り取り込まれてしまっているとすれば、いったいどうすればよいのか。

民主主義と報道の自由の核心的価値が脅かされているときには、ジャーナリストは手をこまねいていてはいけない。守らなければならないのは、ジャーナリスト自身の自由だけではなく、市民の知る権利でもある。われわれメディアの世界にいる人間は、報道の自由をしっかり管理する役割をも担っている。

カトマンズでの民主化運動の様子(2006年春)

私の国ネパールは、絶対君主制、軍事クーデター、議会制民主主義、内戦、戦後の不安定な移行期といった変遷を経てきた。

こうした経験を通してネパール国民は、民主主義と報道の自由のへの脅威は、極右と極左の両方から来るのだと身をもって知った。国の発展は民主主義と直結しており、市町村や国が選挙によって指導者を選ぶとき、説明責任が果たされる可能性は最大になる。

民主主義を現在の危機から救うには、立法、行政、司法が、もっと説明責任を守り、相互にチェック・アンド・バランスの機能を果たし、国民によって信頼される存在になっていくことである。そのための決定的に重要な社会装置が、四本目の柱ともいうべきメディアである。メディアは、独立を保ち、真実を探り、公共に奉仕する責任を有する。ある人が言ったように、民主主義の諸問題を解決していく唯一の方法は、今の民主主義をより民主主義化していくことである。

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※本記事の内容や意見は著者個人の見解です。

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